テリー・イーグルトン、新著『A Death of One’s Own』で死の現実と文学的考察を交わす
文芸評論家テリー・イーグルトンが83歳にして死という不可避の事実を主題とした新著を刊行。マーシャル主義やカトリック信仰などの思想的背景を基盤に、死への態度や終末の瞬間について独自の視点で論じる。
英国の著名な文芸評論家テリー・イーグルトンが、死という人生で最も避けられない事実を主題とした新著『A Death of One’s Own』を刊行した。イーグルトンはこの著作において、60年にわたる学術キャリアで培った広範な読書と思考を駆使し、死の現実に対する独自の考察を展開している。83歳という年齢を自覚しつつ、この書籍が死後出版される可能性も含めて執筆に臨んだ彼は、マルクス主義文学理論やポストモダン批評の認識論的虚空といった従来の関心から、死そのものやそれが持つ「機会の欠如」へと関心を移している。
イーグルトンは、ディラン・トーマスの有名な詩「その良き夜に穏やかに去るな」に対する態度を批判的に検証する。トーマスが病に伏せる父親に対して死を拒絶するように促した点について、イーグルトンは論理的な疑問を呈する。もし死が「良き夜」であるなら、なぜ父親を躊躇させるのか。むしろ、トーマスは父親を、ゴール直前のマラソン選手のように、その素晴らしい結末へ熱狂的に駆り立てるべきであったと指摘する。このトーマスの二重思考への反論は、イーグルトン自身の死への不安や否認を示すものではなく、むしろ死の現実を直視する姿勢の表れである。
著者は、死後の状態を「道徳的・社会的義務から解放される快楽」として描く。死者は債権者を欺き、母親の葬儀に欠席し、駐車違反の支払い要求を無視できる。イーグルトンは、分解のプロセスにさえ「不敵な力に身を委ねるエロティックな至福」を見出し、死にはある種の性的魅力やポルノグラフィックな快楽が含まれると論じる。これは、生きている間には必要とされる「すべてをまとめる」義務から解放される実用的な側面でもある。
しかし、その解放の瞬間まで、私たちは最善を尽くして生きなければならない。イーグルトンは、死がすぐそばにあるという知識を持って日々を生きることを穏やかに提唱する。これにより、私たちが「掴み取り、奪い取る」よう促す死の不安から解放され、ウィリアム・ブレイクのようなビジョンを持って世界を体験できるかもしれない。雨粒や日光、リンゴの音までを痛烈な明晰さで味わうことである。ただし、イーグルトンは、この恍惚状態に達するために必要な精神的な歪曲は、実際には「その価値よりも多くの手間がかかる」と皮肉を交えて指摘する。
私たちは過去を振り返り、想像上の未来を投影し続ける時間囚われの存在であり、現在の現実を生きていない。そのため、死は予期せぬ侮辱や不正義のように訪れる。イーグルトンは、死の床で完璧な言葉を発する必要はないと慰める。トーマスの最期の言葉「終焉はエデンにある」は、単なる形而上学的な空虚さに過ぎないと批判する。一方、スティーブ・ジョブズの「おっと、すごい。おっと、すごい」という言葉は、偽りの壮大さを求めず、聞き手に想像の余地を残す点で優れていると評価する。
『A Death of One’s Own』は、死の恐怖や慰めに関する持続的な調査や議論ではなく、イーグルトンの広大な知性と鋭いユーモアを死という「フルストップ」への到達という事業に注いだものである。序文では、過去60年の「精神的・知的生命」の中心にあったアイデアや個人、すなわちマルクス、フロイト、そしてカトリック信仰が、カーテンが下りる前に最終的な挨拶を行うように描かれている。この密度の高い書籍は、就寝前に少しずつ読むことで、毎朝目覚める「小さな死」を通じて消化するのが最も適切であると示唆されている。